2013年05月09日

サハラ砂漠で考える (【小児歯科臨床】2013年3月号)

【サハラ砂漠で考える】
 アフリカを旅行した時に目に付いたことは、日本とアフリカの子供たちを取り巻く環境の違いでした。
「貧しい国の子供たちが可哀そう」「哀れ、惨め」と言うことではなく、将来を担う子供たちが、診療所もなく薬も買ってもらえないままに一夜にして命を落としてしまう、学校もなく教える人も場所もない、着るものも食べるものさえ充分に与えてもらえないままに、大人の手助けをして日々すごしている、このままでいいのだろうか? という疑問でした。

 個人ボランティアとして腰を据えた支援を考え、1989年8月31日に開業医を辞して同年9月にマリ共和国に渡りました。
最初のサハラ砂漠が作った美しい造形物ともいえる中での毎日は、容易なことではありませんでした。食料は週一回開かれる市場で買いますが、粗悪品が多く砂嵐の後は口に含むとザラザラしていました。しかしどんな場所でも故郷として人々は生きているのです。
 「水も無いし、病院も無いところから引っ越さないの?」と聞くと「ここは私の故郷だから離れない」と答え、村の看護師と話した時に「この村は結核が多い、食料がないから栄養が取れない、買う金が無いし金を得る手段も無い。病気になったら死を待つだけだ」と言うものでした。
 ある日トアレグ族の若夫婦がラクダに新生児を乗せて訪ねて来ました。胸部に大きな血腫がありそれを取り除いてくれと言うのです。勿論不可能です。この村で私が出来るとすれば、化膿している炎症を切開して抗生物質を塗布するくらいでした。この時ほど必要とされていることが目前に見えるのに何も出来ないでいる自分を痛感しました。
 日本での生活全ての面での無駄な豊かさを改めて思い、言葉や慣習・意識の違う中で「人々の役に立つ支援」「確実に生活の中に溶け込む支援」「彼らの未来を明るくするような支援」について考えました。
あせってはいけない、自分の多くを殺し人々に合わせる、常に誠実で忍耐強く本質を曲げないで進むことが大事であると考えました。
ボランティアの仕事は犠牲を伴うのが当然で、こちらの都合ではなく、現地の人々に合わせることが重要ではないか、と思いました。
 対症療法だけでは人々は救われないのです。私がこれまで学んだこと、知っていること、そして出来ることの範囲を充分に広げて現地の人々が納得するような結果を生み出すことが私に課せられたことではないかと考えました。
 夜の砂漠は月の光に輝き透き通るような美しさです。小高い砂丘が影を落としています。子供たちはバケツの底をたたいてリズムをとって歌い踊ります。それは日本の村祭りの夜のような響きで、冷く澄んだ空気を通して私たちの離れたキャンプまで聞こえてきました。美しい自然の中で生きている子供たちが、美しい生活が出来るように願わずにはいられないのです。

sika1.jpg
村上、村の女教師と【家庭の事情・子供を取り巻く環境】
 とにかく子供たちは親の言うことを絶対的に聞きます。反抗する子供を全く見たことも、聞いたこともありません。子供たちは早く大人になりたいと思っています。そのためか早くから出稼ぎに行き独立しているとも言えます。
 
一夫多妻が認められている国ですから子供数も多く、必然的に兄弟姉妹が多くなります。以前女性1人の出産数を調査しましたら、平均7・8回でした。しかし
5歳に満たない子供の死亡率が高く、13人の子供を出産して9人亡くしてしまった母親にも会いました。これは、過去の日本にも見られた現象と同じと思いま
す。
 しかし日本との違いは、母親に充分な知識があるかどうか、子供の養育や教育を必要と考えるかどうかだと思います。「子供を持つということは、子供へ教育を与えることも必要である」とは考えていませんし、勿論母体の健康などは考えにも及びません。
 
女性は10代での出産がベストで、男性にとっては多妻で子沢山が誉れです。女性は自分が太ることと夫が複数の妻を持つことが自慢で、太ることは「私の夫は
沢山食べさせてくれるのよ、金持ちなの」と言うことです。でも多妻は女性間で常に問題を起し、何度も妻たちの愚痴を聞かされました。
 マディナ村小学校の校長は、子供は直ぐに死んでしまうから労働力が減少するので沢山の子供がいたほうがいい、と言っていました。病気になっても当初は無医村でしたから祈祷師に頼るほかになかったのです。
 
稀に都市から来るユニセフは予防接種だけですから、感染症の罹患率が高くマラリアも含めて風土病も蔓延したままです。近年の大きな問題はエイズ罹患者が増
えていることです。出稼者・警官・軍隊・運転手が持ち込むのが多いそうです。市場の繁栄に沿ってエイズ罹患者地帯が変化し、数も増えています。

 マリは小学校6年、中学校3年の9年間の義務教育制度を施行していますが、各村に小学校を1校という前大統領の(国連のミレニアム計画に伴う)目標がありましたが、実現されていません。
 低学年児童を数キロ離れた小学校へ通わせるには無理があり、給食がないため昼食は帰宅しないとならず、それも困難差を助長しています。更に雨季になると道路が決壊する箇所も多くあります。義務教育でも授業料の支払義務があり、収入が降雨量に左右される両親は大変です。
 「学問をすると村を出て行くのでコーランを教えるだけ充分」と考える両親も多く、就学率はまだ低いままです。
現在当会が活動を展開している地域87ケ村には約30小学校と2中学校があり、高等学校はありません。小学校は公立だけでなく村運営の設備の整わない代用教員だけの小学校も多くあります。教室数や教師数が少なく3割くらいの子供しか就学していないと思います。
 
小学校から中学への進学試験に2回(2年)失敗すると進学できません。数年前までは全てフランスのお仕着せ教育制度でしたが、現在はマリ教育省が主体に
なっています。マリ共和国の公用語のフランス語を学校で学びますが、家に帰ると部族語が主体すから、フランス語を勉強しても日常生活ではあまり役にたって
いません。学校へ行っていない子供たちは、ニジェール河の魚を獲り、また市の日(週一回だけ開かれる村の公衆市場)に荷車を引いて商品を運搬して手間賃を
稼ぎ、家計を助けています。

 娯楽や遊び用具のない村で子供たちにはサッカーが人気です。布切れを丸めてボール代わりにし、ダンボールを膝当てにして選手気取りです。過去に何回かカラ主催でサッカー大会「カラ・カップ」を成人と子供を対象に行なったことがあります。
しかし成人対抗は勝利したグループ(村)へ賞金を出すような要求がでてきたため数回で中止し、その後は村立学校の就学児童を対象にしました。試合当日はロバ車数台を連ねて選手と応援団とが会場入りします。
 
子供たちは10km以上も離れた遠い村からお腹をすかして着ますので、各チームへお米をあげました。付き添いの母親数人が持参した米や鍋カマで食事を作り
子供たちに食べさせます。早朝から会場へ到着した人たちは場所取りです。ある村の学校は人数が足りなくて一人女子が混じっていたため、対戦する学校が試合
を拒否しましたが、もちろんそんなことは承諾しませんでした。優勝校には学校野菜園用の一輪車とノート、ボールペンが賞品として与えられます。この試合は
地域のラジオで宣伝され、本当に楽しいものでした。

 女児の楽しみはダンスです。月夜には遅くまで手拍子で歌いながら踊っています。世界
共通でお洒落も大好きです。10歳前でも主食のトウジンヒエの脱穀や炊事も上手にこなし、薪とりや水汲みも母親に言われるままに手伝います。妹や弟の面倒
も良くみて、体の小さい子供が引きずるように赤ちゃんをおんぶしている光景も目にすることがあります。
14〜5歳になると嫁に行くようになりますが、嫁入り道具が揃わないと嫁ぎ先では嫁入りを許しません。お金が貯まるまでは許嫁の状態ですが、その期間に子供が出来てしまうことが多くあります。

 
このような村の子供たちと、首都のバマコ市に住む子供たちでは取り巻く環境が全く違います。レストランを借り切って誕生日パーティーを祝う家庭もあり、自
家用車で通学し帰宅後は家から出ずにコンピューターゲームで時間を費す子もいます。その影響か、近年は眼鏡をかけた子供を多く見かけるようになりました。
母親の社会進出が目覚しいため、家庭や子供はお手伝いさん任せです。もちろん都会でもすべての子供が就学しているわけではなく、就学率は8割程度です。公
立学校は教育水準が低いということで、私立学校が人気です。

【アンバランスな発展】
 同じ国民でも、都会の人たちは不便な地方には行きたがりません。特に現在は携帯電話が使えないとか、パンもない村には行かない若者が増えています。

字を知らず、給料袋にサインをすることもできなくても、携帯電話はぶら下げています。カラの警備員も然りです。都会では携帯電話屋が軒を連ねていますが、
出稼ぎ先から兄弟が送ってくれたものが多く、自分で働いて買ったのではないために大事にしない傾向が見受けられ、発展途上国にも使い捨ての状況が伺えま
す。料金はプリペイドカードなので、お金のある時には頻繁に使用しています。携帯電話の普及により公衆電話はを街角から消え、電話キャビンを開いて生活し
ていた人は職を失ってしまいました。
 近年は公共的にもコンピュータによる業務が主体になっていますので、停電の時にはぴたっと銀行業務も滞るた
め、閉口します。また、算数が出来ない人の中にも計算機を使いたがる人が増え、先進国から入ってくる現代的な物に対する知識が追いつくはずもなく、アンバ
ランスな発展の道を進んでいるように思われて仕方ありません。このコンピュータについても「全国の各コミュンに一台設置する」という政府の計画が発表され
た時に、国民から「電気も引かれていない地域がまだまだ多いのに」と失笑を買っていました。
 ある年、政府はバマコ市内の多くの辻にロータリーをつくり交通秩序を守るように考えましたが、市民はロータリーの利点を理解することが出来ず、結局ロータリーだったのに全方向に進んでも良いようになりました。
 
日々新しい情報が多く入り知識が広がっていますが、それと共に子供たちの不良化が問題となっています。都会では子供たちは親に「学校へ行く」と嘘を言って
街で遊びまわっている事が多く、娯楽のない村の親戚へ預け、そこで学校に通わせている、という家庭も多くあります。カラのスタッフの親戚もそうでした。そ
して、少女たちの妊娠が増えているのも問題です。しかしこれを問題にしている割には、性教育を行っているようには見受けられません。

【確実な支援への心構え】
 国の発展の為に常に犠牲となっているのは、弱い立場の女性や老人、子供たちです。

然環境の変化・悪化は人間の力ではどうしようもないことですが、人間・私たちの力で彼らの生活環境を少しでも変えることが出来るとすれば、未来は今より
も、もっともっと健康で明るいものになるでしょうし、機会がないばかりに埋もれたままの人々の才能も芽を出すに違いなく、強いては自力で貧困から抜け出る
ことが国の将来にも繋がるのではないかと思います。
 その為に微力でも人々をどのように導き、そのために何からスタートしたらいいのかを考えまし
た。外国人という異分子的な私の存在は村や人々にとって、「何かをしてもらえる」「人々に何かを与えてくれる」という思いが強くあるようだったので、その
ような意識を根本的に改めるような策を考えました。その為に私(日本人)は表に立たずに、アフリカ人スタッフが直接地域の人たちと話し合って指導する様に
しました。
 自立の為には自らの創意工夫も重要なポイントです。地域にある材料・技術・方法を活用することが大切ですから、外(日本からも)から
は何も持ち込まないというルールを徹底し、現地の人たちの能力や生活状況、意識に合わせました。基本的に人々の日常生活に必要な全て、つまり生きるために
必要なことを事業項目として、それらを単独に進めるのではなく、同時に進めていきました。
 決して先進国と同じような文化的で合理的なことではありません。しかしどうしても現地の人では手に負えない、多くの資金が必要な事項(建設や井戸設置、その他の大掛かりなこと)の支援は当会が負担しました。
 
重要なことは、私たちが全てに手を出すのではなく村の人が考える余地を残すことです。失敗したら話し合って解決の糸口を見つけることです。ある程度まで指
導したら、後は自分の考えで進みなさい、としました。そして素晴らしいことが出現したら、人前で褒めました。驚くことに、私たちの想像を超えた成果が個人
的にも村単位でも見られることが多くありました。

 単独ボランティアとしての活動は、街道のカイセドラの木の下から始まりました。
発展途上国でも、都会と村とでは発展の度合いに格段の違があります。都会に対しては先進国が競って近代化やインフラへの支援を進めていますが、私は村の人々を主体とした事業を考えました。
 
1990年11月、個人ボランティアとしての仕事のスタートは、初めて住み込んだマディナ村の家庭を調査し、状況を明らかにする事でした。病気になったら
どうしようもない、学校が再開できない、という問題が明らかになりました。これらをどのようにして改善するか村民会議で話し合い、共通の認識を持って事業
を開始しました。
 当初人々は、支援事業は村へ金が落ちると考え、作業の代価を出さないと働きませんでした。何をするにも「カネを出してくれなけ
ればしない」と言い、「金」を生み出す事を考えない人たちが多く、外国人・マリ人を問わず「金」のある人に親戚一同が頼る、というのが多くの人の生き方
だったようです。
女のボランティアは役に立たないからいらない、と言われたことすらありました。しかしそのような人ばかりではなく、私の話す英語を部族語に訳してくれる青年や、マラリアになった時に食事を届けてくれた親切な女性、また村長に守られて事業を続けてきました。
 
ある日、私が着用していた衣服を見て「アラ、誰が作ったの? どの様にして作ったの? 教えて!!」という会話からスタートしたのがいわゆる「女性適正技
術」普及のための指導です。当初は女性センターが建設されていませんでしたが、外国人が手縫いで子供服の作り方を教えることや、伝統的に男性の仕事である
縫製を女性がする、ということもあって人々の興味の対象となりました。可愛い子供服から始まった指導は人々を呼び、注文を受けて収入を得るようにまでなり
ました。
農産物の販売だけではなく、縫い物や刺繍、編み物から女性が収入を得るようになったことは村の誉れになり、遠くからも製作を依頼されるよ
うにもなりました。夫は技術を持った妻を誇りに思うようになり、家庭内暴力も減りました。収入を得て自信を持った女性たちは、会議でも堂々と発言するよう
にもなりました。ついには文字を書くことが出来なくても村の代議員になった女性もいます。
 東洋人=中国人としか意識がなかった人たちが、超発展
国と思われている憧れの日本から来た女性が村の小学校を復興させ、識字教室に共に参加している、ということも村人のモチベーションを高めたようです。村と
の2年間の契約後半には資金を出して助産師と看護師を育成し、合わせて診療所も建設しました。現在はコミュン中心の診療所となり、行政が認めるまでになり
ました。もちろん運営管理は村自体で行っています。
 当初は小学校だけの村でしたが後に中学校を開設し、さらに教室を増築するようになりました。中学校への進学者数は村民間の名誉に繋がり、自慢しあうようになっています。

【貴重な体験と協調することの大切さ】
 更にこの貴重な体験として、ある年に京都龍谷大学の生徒さん13人がボランティア事業の視察にマディナ村に来た事により、それまでの長きにわたりマディナ村と周囲12カ村との間に続いていた争いに終止符が打たれ、理解しあって親しく交流が始まった、ということです。
 
その理由は、「マディナ村に学校を建設し、診療所も出来た。そして多くの外国人が来る事は、マディナ村は信頼に値する立派な村である」と理解されたからな
のだそうです。何が始まるかも分からないままに、数人の学生さんと引率の教授、そして私がマディナ村の村長と共に隣の村へ招かれ、式典に参加したのです。

派な伝統衣装の長老たちが現れ、手打ち式が行なわれている間、我々は何のことかと興味深深でしたが、後から聞いて大変な日だったことがわかりました。この
ようなことにもあり、NGOの支援は単に技術や建設、自立への意識の変革だけではなく、社会的な面にも貢献する、ということを知りました。
 
1990年、私が初めてマディナ村でボランティアを始めた時には、人口は700人余りでした。全ての家庭を調査して廻った時、ある子供の虫歯について注意
した際には、父親から歯ブラシに石鹸をつけて洗うのか、と真剣に質問されたこともありました。村の開発が進むにつれ、過去の飢饉の時に出稼ぎに出たまま国
外に住み着いていた人たちも村へ戻ってきました。2002年頃には人口1,300人になっていました。2011年には幼稚園まで建設されました。この村か
らコミュン長も出現しました。現在、村の中央を舗装道路が通り、定期バスも運行しています。
 事業をうまく進めるコツは、女性を取り込むことも重
要な要因ではないでしょうか? 家族のために働いている女性・主婦は、井戸を設置することで野菜栽培だけでなく、適正技術の発展、保健衛生知識普及、植林
などに多くの裨益効果をよびました。人々が早く収入を得れるようにし、それを目の当たりにさせて女性をひきつける事が支援の行く末を物語るようです。
 
村が変わる・人々の意識が変わる為には、村に指導的な人がいることや、人を育てることも重要で、村と常に話し合い、許可を得て活動を進めなければいけませ
ん。決め事や指導に個人的に逆らう人もいますし嘘をつく人もいました。しかしそんな時に助けてくれたのは村長や長老たちでした。人々にも、生活・自然環境
にも、自然にうまく融和していくことがとても大事であると思います。

 これまでの20年間の事業は、ほんの一隅を照らすことしか出来ませんでしたが、確実に人々の意識は目覚め、変わり、生活が改善されてきました。村の人々との長い付き合いから、厚い信頼を得て更に今後の活動を期待されています。
 
往々にして、アフリカ人は我々とは全く違っていると思われがちですが、肌の色が違っていても何もかわりありません。道徳心や倫理面、礼儀、目上を敬う気持
ち、そしてやさしさや思いやる気持ち、悲しみも喜びも全く同じです。彼らの心にも熱い血が流れ、私たちと隔てるものは何もありません。今の日本には「人間
としての本来の姿」を忘れてしまっているような感じを日々思います。「共に生きる」ということはどのようなことなのか? を改めて考えることが必要だと思
います。我々日本人が忘れているものをアフリカの人たちに見ることが出来るように感じています。



sika2.jpg
村の保健普及員の女性たち

sika3.jpg
識字学習教室

sika4.jpg
井戸

sika5.jpg
ンゴロブグ菜園

sika6.jpg
ソモノダガブグ村の子供達
【新聞・雑誌掲載記事の最新記事】
posted by CARAブログ at 18:39| 新聞・雑誌掲載記事