事務局からのお知らせです!!
カラ代表:村上 一枝が4/13(土)にTBSラジオの番組『久米宏 ラジオなんですけど』(午後1〜3時)の
ゲストコーナー「今週の スポット ライト」(2時〜2時30分)にゲストとして出演します。
久米宏さんと30分間の対談で、カラの活動のことなど色々なお話がでると思います。
ご都合が宜しければ、どうぞお聴き下さい。
2013年04月09日
TBSラジオ『久米宏 ラジオなんですけど』出演のお知らせ
posted by CARAブログ at 15:31| 代表村上より
2013年02月01日
『第二回毎日地球未来賞』を受賞いたしました。
ご報告いたします。
私共【カラ=西アフリカ農村自立協力会】は、これまでのマリ共和国における活動に対し『第二回毎日地球未来賞』の栄誉に与りましたのでご報告いたします。毎日新聞紙上(朝刊)にて、2013年1月22日付けで発表されました。
これも、多くの方々の変わらぬご理解とご支援の賜物と感謝いたしており、スタッフ一同心からお礼申し上げます。
なお、この受賞につきまして、明治学院大学教授 勝俣誠先生のご推薦をいただきました。
現在、マリ共和国は不幸な状況に見舞われておりますが、私たちは今回の受賞を糧にして、今までと変わることなくマリの農村の人たちのために努力を続けてまいります。
今後とも宜しくお願い申しあげます。
毎日jpの記事はこちら↓
http://mainichi.jp/select/news/20130122k0000e040161000c.html
私共【カラ=西アフリカ農村自立協力会】は、これまでのマリ共和国における活動に対し『第二回毎日地球未来賞』の栄誉に与りましたのでご報告いたします。毎日新聞紙上(朝刊)にて、2013年1月22日付けで発表されました。
これも、多くの方々の変わらぬご理解とご支援の賜物と感謝いたしており、スタッフ一同心からお礼申し上げます。
なお、この受賞につきまして、明治学院大学教授 勝俣誠先生のご推薦をいただきました。
現在、マリ共和国は不幸な状況に見舞われておりますが、私たちは今回の受賞を糧にして、今までと変わることなくマリの農村の人たちのために努力を続けてまいります。
今後とも宜しくお願い申しあげます。
毎日jpの記事はこちら↓
http://mainichi.jp/select/news/20130122k0000e040161000c.html
posted by CARAブログ at 23:54| 代表村上より
2012年12月28日
セネガルへの出張
先日12月14日から24日までセネガルのダカールへ出張しました。
現在マリは政情不安定のために渡航が難しいため、現地スタッフをダカールへ呼び、カラの活動について打ち合わせをするための出張でした。ダカールへはジャワラとスマイラ、そしてラミンが来ました。
久しぶりにスタッフと再会し、村の情報を聞き、事業は計画通りに順調に進んでいることを確認しました。しかし問題は、会員の方々のご支援で建設している3カ村の新規産院です。
2ケ村(キバ村とコニナブグー村)では建物の建設が終了し、現在はベットや分娩台、戸棚を製作中です。
しかしママブグー村では、長老の1人が土レンガでの建設に反対し、セメントレンガでの建設を主張しているために、建設が始まっていないと言うことでした。
これはカラとの最初の契約に違反しますので、理解が得られない場合には、他村へ建設することとしました。もう一度スタッフのアワが交渉する予定となっています。
この3産院で働く助産師3人の育成は12月で終了します。特にコニナブグー村から研修に出ている女性は優秀なため、看護士の勉強もすることになり、1ヶ月研修を延長することになりました。このための費用は村が負担します。
ここでチョット楽しい話を。
マリから来たスタッフのスマイラは初めて飛行機を経験しました。東京事務局スタッフから事前に「飛行機に乗る時には靴を脱ぎ、機内に入ったら自己紹介をするように」と(ふざけて)伝えてありました。
ダカールでスマイラにあったら「海にも挨拶した」と笑っていました。なんとスマイラはストライプのスーツを着ていました。一生に一度のチャンスに多分無理をしたのでしょう。
ダカールの街での昼食はマリの2倍以上の値段で驚いていましたが、マリでは食べたことのない海魚のムニエルのホワイトソースに感激、仕事の後には、海や船を見に行って喜んでいました。
2mを超える身長の男性の多い中で、アフリカの民族服装は見かけず、スーツスタイルの人が多く、バマコとのあまりにも違うダカールの発展にも驚いていました。
帰国時には空港で6時間以上も待つようでしたが、満足のいく感激的な出張だったとのことでした。
アフリカのパリと言われ、国際会議も多く開かれているダカールの発展は目覚しいです。日本とはチョット違った感じの「すし屋」も数件あり、プラスチック製の大きな大仏を飾っているレストランもありました。
バマコの様にバイクや自転車は殆ど見かけなく、乗用車が大半でした。しかし街は道路の破損箇所も多く、その上とても不衛生でした。ジャワラは「バマコの方が田舎だが、やっぱりバマコがいいな・・」と言っていました。
写真は、スマイラが挨拶したダカールの海です。【夕暮れの海岸とモスク(イスラム寺院)】
現在マリは政情不安定のために渡航が難しいため、現地スタッフをダカールへ呼び、カラの活動について打ち合わせをするための出張でした。ダカールへはジャワラとスマイラ、そしてラミンが来ました。
久しぶりにスタッフと再会し、村の情報を聞き、事業は計画通りに順調に進んでいることを確認しました。しかし問題は、会員の方々のご支援で建設している3カ村の新規産院です。
2ケ村(キバ村とコニナブグー村)では建物の建設が終了し、現在はベットや分娩台、戸棚を製作中です。
しかしママブグー村では、長老の1人が土レンガでの建設に反対し、セメントレンガでの建設を主張しているために、建設が始まっていないと言うことでした。
これはカラとの最初の契約に違反しますので、理解が得られない場合には、他村へ建設することとしました。もう一度スタッフのアワが交渉する予定となっています。
この3産院で働く助産師3人の育成は12月で終了します。特にコニナブグー村から研修に出ている女性は優秀なため、看護士の勉強もすることになり、1ヶ月研修を延長することになりました。このための費用は村が負担します。
ここでチョット楽しい話を。
マリから来たスタッフのスマイラは初めて飛行機を経験しました。東京事務局スタッフから事前に「飛行機に乗る時には靴を脱ぎ、機内に入ったら自己紹介をするように」と(ふざけて)伝えてありました。
ダカールでスマイラにあったら「海にも挨拶した」と笑っていました。なんとスマイラはストライプのスーツを着ていました。一生に一度のチャンスに多分無理をしたのでしょう。
ダカールの街での昼食はマリの2倍以上の値段で驚いていましたが、マリでは食べたことのない海魚のムニエルのホワイトソースに感激、仕事の後には、海や船を見に行って喜んでいました。
2mを超える身長の男性の多い中で、アフリカの民族服装は見かけず、スーツスタイルの人が多く、バマコとのあまりにも違うダカールの発展にも驚いていました。
帰国時には空港で6時間以上も待つようでしたが、満足のいく感激的な出張だったとのことでした。
アフリカのパリと言われ、国際会議も多く開かれているダカールの発展は目覚しいです。日本とはチョット違った感じの「すし屋」も数件あり、プラスチック製の大きな大仏を飾っているレストランもありました。
バマコの様にバイクや自転車は殆ど見かけなく、乗用車が大半でした。しかし街は道路の破損箇所も多く、その上とても不衛生でした。ジャワラは「バマコの方が田舎だが、やっぱりバマコがいいな・・」と言っていました。
写真は、スマイラが挨拶したダカールの海です。【夕暮れの海岸とモスク(イスラム寺院)】
posted by CARAブログ at 18:06| 代表村上より
2012年08月31日
現地マリ人スタッフの悩み
少し長い文章ですが、村の人たちの心の動きです。最後までお読みください。
チョット遅くなりませたが、先回(2011年12月→2012年3月)の渡航時に少し驚いたことがありました。
それは、昨年カラの現地を視察した方のご好意で建設されることになった、3カ村への産院の建設に関することです。
私がコニナ村に滞在中、スタッフが「3カ村に行って産院建設について説明をしてくれ」と言うのです。
今までこのようなことはなく、全てをスタッフのスマイラとケイタに任せて何の問題も無く過ごしてきました。
3カ村の筆頭に、キバ村(時としてキバン村と言われますが)を訪問しました。
5年前にカラが建設した識字教室に村長、長老、青年グループ代表そして女性グループ総計38人が部屋一杯に集まり説明会を開きました。
はじめに儀式的な長々とした時候の挨拶・家族一同の状況を尋ねることなど等の挨拶の後、本題の産院建設について私がフランス語で、横に並ぶアワがそれをバンバラ語に通訳して始めました。
スタッフ間の立場は、この村はケイタのテリトリーですので彼が仕切るのが通常ですが、保健、女性の仕事に関しては全てをアワが仕切っています。
私は、産院の開設について、産院建設の理由、カラが負担する事項(助産師育成費用と産院の建設資材の提供、建設技術者の派遣)、次いでこれに関する村側(人)の負担すべき事項について話しました。
そして、産院開設後は全て村の責任で運営管理すること、その為に村で委員会を設立し助産師の給料や以後の薬剤の購入についてもすべて村が配慮することです。
この事業は既に2011年の春に(助産師育成が始まる前)村民会議で説明し、村から納得と了解を得てからのスタートした事業です。
しかし、今回の私の説明が進むうちに緊急動議的な問題がありました。
それは村側、村長から「建設の土台となる土レンガを製造する職人が現在多忙である、そこを無理して頼むのだから、カラがその労務費を支払ってくれ」と言うのです。
私は「カラは建設や助産師育成に800万セーファーフラン(約130万円)も村のために使用しているので、その要請は聞けない、多額の資金をかけてキバ村の人たちを支援している、更に要求するとは何事か、このカラの支援に対して村はどのように答えるか?もし納得できないならばこれ以上の資金は出せないから事業は中止にする、産院を欲しい村は沢山ある」と答えました。
そうしたら村長が「5分待ってくれ、今相談するから」と言い、数人の男性と外に出て行きました。
数分もたたない内に戻ってきて、「分かった、カラの言うとおりにするから建設をしてくれ」と言うことになりました。
村長と数人が外に出て相談している間、多くの若者と女性グループが部屋に残っていましたが、彼らの考えは村長達の考えに反対でした。
特に女性たちは「村長の考えは良くない、自分たちで使うものだから自分たちも協力しなければいけない」と、はっきり口に出して言っていました。
なぜにこのような言葉が村長から出たのかと言うと、【土レンガ製造に携わる人へ労務費が出ているはずである、しかし村にいるカラの現地スタッフのアワやケイタがネコババして村へ渡してくれないのだろう】という邪推があり、現地スタッフの説明では信用してくれないと言い、スタッフたちは怒っているのです。
その為に予定では既に終了しているはずの土レンガ製造がまだ始まっていなかったのです。
私の20年過ぎた経験でも、はじめて聞いたことでした。
このキバ村での説明後、その足で4km離れたママブグー村へ同様な説明に行きました。
そうしたら、またこの村でもカラスタッフ間と村人との間に問題が起きていました。
ママブグー村での問題は、「土レンガ製造ではなくセメントレンガの製造にしてくれ」と言う内容です。
理由は「セメントレンガは土レンガよりも清潔だから」と言うのです。
しかしこれが本当の理由ではないのです。真の理由は一部のキバ村人と同様に、日本からはきっとセメントレンガ製造の費用が来ているのに、現地スタッフがそれをネコババして、費用のかからない土レンガを製造させているのではないか?という、これも邪推です。
よく話し合って説明を終えました。
もう1カ所のコニナブグー村では、カラが以前に指示した通りに建設準備を進めていましたから問題はありませんでした。
その後宿舎へ帰り、食事をしながらスタッフは部族が違うといえ同じマリ人、同じ国民でありながら、彼らとの付き合いは非常に難しく、身に覚えの無い誤解を受けて怒り心頭でした。
3カ村を廻って3カ村の顔を見てきました。でも一昨年産院を建設したヌムブグ村でも同様な問題があったということでした。
村人はやはりセメントレンガの費用で土レンガを作らせているとスタッフたちを誤解していたと言うのです。
しかしそこへ、ある日私が行き、土レンガやそれを使用しての建設を写真に写しているので、「これは正しかった」という風に誤解が解けたそうです。
長い間マリにいても、なかなか外国人の私たちの耳に入ってくることは多くはありません。
特に、何か支援すると「うれしい」「ありがたい」と言う言葉を言ってくれます。
確かにこれも真実でしょうが、その裏に隠されたことも知ることも必要ではないでしょうか?
そうではないと適切な支援にならない様に思います。
次回は、十数年前に実際に経験したことをお話いたします。 (分責:村上)
チョット遅くなりませたが、先回(2011年12月→2012年3月)の渡航時に少し驚いたことがありました。
それは、昨年カラの現地を視察した方のご好意で建設されることになった、3カ村への産院の建設に関することです。
私がコニナ村に滞在中、スタッフが「3カ村に行って産院建設について説明をしてくれ」と言うのです。
今までこのようなことはなく、全てをスタッフのスマイラとケイタに任せて何の問題も無く過ごしてきました。
3カ村の筆頭に、キバ村(時としてキバン村と言われますが)を訪問しました。
5年前にカラが建設した識字教室に村長、長老、青年グループ代表そして女性グループ総計38人が部屋一杯に集まり説明会を開きました。
はじめに儀式的な長々とした時候の挨拶・家族一同の状況を尋ねることなど等の挨拶の後、本題の産院建設について私がフランス語で、横に並ぶアワがそれをバンバラ語に通訳して始めました。
スタッフ間の立場は、この村はケイタのテリトリーですので彼が仕切るのが通常ですが、保健、女性の仕事に関しては全てをアワが仕切っています。
私は、産院の開設について、産院建設の理由、カラが負担する事項(助産師育成費用と産院の建設資材の提供、建設技術者の派遣)、次いでこれに関する村側(人)の負担すべき事項について話しました。
そして、産院開設後は全て村の責任で運営管理すること、その為に村で委員会を設立し助産師の給料や以後の薬剤の購入についてもすべて村が配慮することです。
この事業は既に2011年の春に(助産師育成が始まる前)村民会議で説明し、村から納得と了解を得てからのスタートした事業です。
しかし、今回の私の説明が進むうちに緊急動議的な問題がありました。
それは村側、村長から「建設の土台となる土レンガを製造する職人が現在多忙である、そこを無理して頼むのだから、カラがその労務費を支払ってくれ」と言うのです。
私は「カラは建設や助産師育成に800万セーファーフラン(約130万円)も村のために使用しているので、その要請は聞けない、多額の資金をかけてキバ村の人たちを支援している、更に要求するとは何事か、このカラの支援に対して村はどのように答えるか?もし納得できないならばこれ以上の資金は出せないから事業は中止にする、産院を欲しい村は沢山ある」と答えました。
そうしたら村長が「5分待ってくれ、今相談するから」と言い、数人の男性と外に出て行きました。
数分もたたない内に戻ってきて、「分かった、カラの言うとおりにするから建設をしてくれ」と言うことになりました。
村長と数人が外に出て相談している間、多くの若者と女性グループが部屋に残っていましたが、彼らの考えは村長達の考えに反対でした。
特に女性たちは「村長の考えは良くない、自分たちで使うものだから自分たちも協力しなければいけない」と、はっきり口に出して言っていました。
なぜにこのような言葉が村長から出たのかと言うと、【土レンガ製造に携わる人へ労務費が出ているはずである、しかし村にいるカラの現地スタッフのアワやケイタがネコババして村へ渡してくれないのだろう】という邪推があり、現地スタッフの説明では信用してくれないと言い、スタッフたちは怒っているのです。
その為に予定では既に終了しているはずの土レンガ製造がまだ始まっていなかったのです。
私の20年過ぎた経験でも、はじめて聞いたことでした。
このキバ村での説明後、その足で4km離れたママブグー村へ同様な説明に行きました。
そうしたら、またこの村でもカラスタッフ間と村人との間に問題が起きていました。
ママブグー村での問題は、「土レンガ製造ではなくセメントレンガの製造にしてくれ」と言う内容です。
理由は「セメントレンガは土レンガよりも清潔だから」と言うのです。
しかしこれが本当の理由ではないのです。真の理由は一部のキバ村人と同様に、日本からはきっとセメントレンガ製造の費用が来ているのに、現地スタッフがそれをネコババして、費用のかからない土レンガを製造させているのではないか?という、これも邪推です。
よく話し合って説明を終えました。
もう1カ所のコニナブグー村では、カラが以前に指示した通りに建設準備を進めていましたから問題はありませんでした。
その後宿舎へ帰り、食事をしながらスタッフは部族が違うといえ同じマリ人、同じ国民でありながら、彼らとの付き合いは非常に難しく、身に覚えの無い誤解を受けて怒り心頭でした。
3カ村を廻って3カ村の顔を見てきました。でも一昨年産院を建設したヌムブグ村でも同様な問題があったということでした。
村人はやはりセメントレンガの費用で土レンガを作らせているとスタッフたちを誤解していたと言うのです。
しかしそこへ、ある日私が行き、土レンガやそれを使用しての建設を写真に写しているので、「これは正しかった」という風に誤解が解けたそうです。
長い間マリにいても、なかなか外国人の私たちの耳に入ってくることは多くはありません。
特に、何か支援すると「うれしい」「ありがたい」と言う言葉を言ってくれます。
確かにこれも真実でしょうが、その裏に隠されたことも知ることも必要ではないでしょうか?
そうではないと適切な支援にならない様に思います。
次回は、十数年前に実際に経験したことをお話いたします。 (分責:村上)

posted by CARAブログ at 01:32| 代表村上より
2012年02月28日
満月の夜 コニナ村から・・・
澄み切った夜空に冴える満月に誘われて、今夜の食事はコニナ村のカラの宿舎の庭から外に出てきました。
余りに月の美しさに見せられて「今夜は ケネマ(外で)食事をしよう」と言う私に、セイドウがテーブルと椅子を運び、アワが準備してくれたジャガイモと鶏肉を煮込んだ大きな器をスマイラが運びます。
そしてテーブルの上にはもう一つのボールがあり、それには新ササゲの焚いたものが入っていました。
これは、スマイラがご馳走してくれたもので、ササゲは味をつけずに焚くのです。新鮮なため皮が軟らかくてとても美味しいです。普段は油をかけて食べますが、今夜はトマト味のジャガイモと鶏(これは昼間その辺で遊んでいた鶏です)を炊いたソースをかけて食べます。みんなで賑やかに食卓の準備をしましたが、私と田和さん(一昨日東京のJICA地球ひろばから新事業契約のために現地入り)は手ぶらで出てきます。男性たちが持たせてくれないのです。ナント優しいのでしょう・・・ 。
平坦でない地面に村の人が作った少し脚の長さが違うテーブルを、どのようにしてガタガタしないように置くか。石を置いたり、土を盛り上げたりしてやっと均等に据えることができました。テーブルの上には私が縫った布を掛けますが、所々にシロアリが食べた穴が開いていますが、そんなこと全く気にしません。「ホイ ターラ(何の問題も無い)」と言います。
サテ、満月の下での食事です。
かすかに掠める風に乗って、シャカ(カラのアシスタントスタッフ)が奏でるバラフォンの音が聞こえてきます。
「今夜は日本では十五夜って言うのよ」と私。セイドウは「アフリカでは、カロ(月)ティレ(日)タン(10)ニ(そして)ドゥル(5)ス(夜)って言うんだ」と、日本語で言っただけなのに、チャンとバンバラ語で答えてくれました。「エー アフリカも日本も同じなんだ」とみんなでビックリです。しかし田和さんについて村入りした通訳のアフリカ人は「知らない」と言います。「バマコ モゴ(人)は、知らないよ」とスマイラ。都会っ子は知らない単語なのでした。
この夜は、アフリカの村では娘たちが外に出て唄い、手拍子をとって踊るのだそうです。「日本ではお団子を飾って、ススキを活けてお月様に感謝するのよ」と説明したら、「ア カイン(良いね)」とセイドウ。
しかしこの満月の下のディナーは、足元を蚊に刺され、痒くてかゆくて堪らなく、早々に庭の中に戻ってきました。
宿舎の庭には10年前に植えたニームの木が数本ありますが、その葉の間からもお月様がチラチラ見えて、これも何とも言えない風情でした。今度は寝転がって月をみて、賑やかに話しをして時を過ごしました。
そこで私は恥ずかしながら一句。
「バラホンの 音に笑顔の 満月や」
しつこくも、もう一句
「秋の朝 肩に支援を アフリカヘ」(成田へ向かう日の早朝です)。
この頃俳句に凝っています。お読みになった方、ご遠慮なく辛らつなご批評、ご指導をください。
(こんなつまらない、ダサイ句は載せるな!!と聞こえるような気もします)
村上 一枝 10月 満月の夜に
余りに月の美しさに見せられて「今夜は ケネマ(外で)食事をしよう」と言う私に、セイドウがテーブルと椅子を運び、アワが準備してくれたジャガイモと鶏肉を煮込んだ大きな器をスマイラが運びます。
そしてテーブルの上にはもう一つのボールがあり、それには新ササゲの焚いたものが入っていました。
これは、スマイラがご馳走してくれたもので、ササゲは味をつけずに焚くのです。新鮮なため皮が軟らかくてとても美味しいです。普段は油をかけて食べますが、今夜はトマト味のジャガイモと鶏(これは昼間その辺で遊んでいた鶏です)を炊いたソースをかけて食べます。みんなで賑やかに食卓の準備をしましたが、私と田和さん(一昨日東京のJICA地球ひろばから新事業契約のために現地入り)は手ぶらで出てきます。男性たちが持たせてくれないのです。ナント優しいのでしょう・・・ 。
平坦でない地面に村の人が作った少し脚の長さが違うテーブルを、どのようにしてガタガタしないように置くか。石を置いたり、土を盛り上げたりしてやっと均等に据えることができました。テーブルの上には私が縫った布を掛けますが、所々にシロアリが食べた穴が開いていますが、そんなこと全く気にしません。「ホイ ターラ(何の問題も無い)」と言います。
サテ、満月の下での食事です。
かすかに掠める風に乗って、シャカ(カラのアシスタントスタッフ)が奏でるバラフォンの音が聞こえてきます。
「今夜は日本では十五夜って言うのよ」と私。セイドウは「アフリカでは、カロ(月)ティレ(日)タン(10)ニ(そして)ドゥル(5)ス(夜)って言うんだ」と、日本語で言っただけなのに、チャンとバンバラ語で答えてくれました。「エー アフリカも日本も同じなんだ」とみんなでビックリです。しかし田和さんについて村入りした通訳のアフリカ人は「知らない」と言います。「バマコ モゴ(人)は、知らないよ」とスマイラ。都会っ子は知らない単語なのでした。
この夜は、アフリカの村では娘たちが外に出て唄い、手拍子をとって踊るのだそうです。「日本ではお団子を飾って、ススキを活けてお月様に感謝するのよ」と説明したら、「ア カイン(良いね)」とセイドウ。
しかしこの満月の下のディナーは、足元を蚊に刺され、痒くてかゆくて堪らなく、早々に庭の中に戻ってきました。
宿舎の庭には10年前に植えたニームの木が数本ありますが、その葉の間からもお月様がチラチラ見えて、これも何とも言えない風情でした。今度は寝転がって月をみて、賑やかに話しをして時を過ごしました。
そこで私は恥ずかしながら一句。
「バラホンの 音に笑顔の 満月や」
しつこくも、もう一句
「秋の朝 肩に支援を アフリカヘ」(成田へ向かう日の早朝です)。
この頃俳句に凝っています。お読みになった方、ご遠慮なく辛らつなご批評、ご指導をください。
(こんなつまらない、ダサイ句は載せるな!!と聞こえるような気もします)
村上 一枝 10月 満月の夜に
posted by CARAブログ at 20:48| 代表村上より
代表ご挨拶
代表ご挨拶 2011年12月末日
カラコンサート「かけはし2011」を終え、慌しく村上は19日にマリヘ到着いたしました。今回は2012年3月上旬までの滞在です。
マリは、朝晩には寒さを感じるようですが日中は30度の暑さです。
マリの現地では新規の2事業がスタートしました。スタッフ一同フル回転の毎日です。フランス語の識字教師育成研修会や、10カ村への識字教室の建設、診 療所の建設、井戸の改修工事そして3人の助産師育成と新産院の建設、と多種多様です。村の人たちと力を合わせて、人々の健康な生活に向かって来年はどのよ うに変わっていくか、と楽しみながらの活動です。
日本から現地をご視察にいらっしゃる方も増えました。村にも泊まって下さりマリの田舎を味わってくださいます。とても嬉しいことです。
本年も変わらぬ暖かいご支援をありがとうございました。心から感謝申し上げます。
みなさま、よいお年をお迎えください。
2011年12月バマコにて 村上 一枝
カラコンサート「かけはし2011」を終え、慌しく村上は19日にマリヘ到着いたしました。今回は2012年3月上旬までの滞在です。
マリは、朝晩には寒さを感じるようですが日中は30度の暑さです。
マリの現地では新規の2事業がスタートしました。スタッフ一同フル回転の毎日です。フランス語の識字教師育成研修会や、10カ村への識字教室の建設、診 療所の建設、井戸の改修工事そして3人の助産師育成と新産院の建設、と多種多様です。村の人たちと力を合わせて、人々の健康な生活に向かって来年はどのよ うに変わっていくか、と楽しみながらの活動です。
日本から現地をご視察にいらっしゃる方も増えました。村にも泊まって下さりマリの田舎を味わってくださいます。とても嬉しいことです。
本年も変わらぬ暖かいご支援をありがとうございました。心から感謝申し上げます。
みなさま、よいお年をお迎えください。
2011年12月バマコにて 村上 一枝
posted by CARAブログ at 20:44| 代表村上より
2012年02月24日
カラの会員及びご支援くださる皆さまへ
2011年3月11日の東日本大震災の発生により、尊いお命を亡くされた方々のご冥福を心からお祈り申し上げますとともに、各地で多くの被害を被ったみなさまにお見舞い申し上げます。
カラには東北・関東方面にも活動をご支援くださる多くの方がいらっしゃいます。
過去には、今回不幸にして被災された地でマリでの活動について何回となく講演させていただきました。
その折に真剣にお聞きくださり、多くの質問をいただき、親しくお話を交わした方々は今どうしていらっしゃるかと思いを巡らしております。
今回発行いたしました「からばす25号」に文章をお載せくださった生徒さんの宮城学院でも毎年お話をさせていただきました。 学園祭の折にお目にかかった生徒さんたちの元気なお姿が思い出されます。
今回の日本の大災害に対してカラの支援先のマリ共和国クリコロ県トゥグニコミュン31ケ村の人たちや現地のカラスタッフからのお見舞い文が送られて来ましたので、日本語に訳し、要約してお伝えいたします。
「長い間私たちをご支援してくださっている日本の方々が『地震と津波』により大規模な災害に見舞われ、非常に多くの人が亡くなり、被害を被ったことを知り、トゥグニコミュン全住民、カラ現地スタッフは非常に悲しみ、心を痛めております。 私たちは、3月18日に村のモスク(イスラム寺院)で日本のみなさんが不幸に耐えて勇気を持ち、再び安定した国と人生を迎えますことをお祈りしました。どうか、みなさんお体を大事にして下さい。神のご加護がありますように……。」
自然の中で生きている私たちは、その脅威を跳ね除けることは出来ませんでしたが、再び立ち上がれる強い力を持っていると信じます。 長い期間が必要と思いますが、一日も早く以前の美しい町を取り戻し、穏やかな生活を送ることの出来る日々がくることを祈っております。
2011年3月31日 特定非営利活動法人 カラ=西アフリカ農村自立協力会 東京事務局一同
カラには東北・関東方面にも活動をご支援くださる多くの方がいらっしゃいます。
過去には、今回不幸にして被災された地でマリでの活動について何回となく講演させていただきました。
その折に真剣にお聞きくださり、多くの質問をいただき、親しくお話を交わした方々は今どうしていらっしゃるかと思いを巡らしております。
今回発行いたしました「からばす25号」に文章をお載せくださった生徒さんの宮城学院でも毎年お話をさせていただきました。 学園祭の折にお目にかかった生徒さんたちの元気なお姿が思い出されます。
今回の日本の大災害に対してカラの支援先のマリ共和国クリコロ県トゥグニコミュン31ケ村の人たちや現地のカラスタッフからのお見舞い文が送られて来ましたので、日本語に訳し、要約してお伝えいたします。
「長い間私たちをご支援してくださっている日本の方々が『地震と津波』により大規模な災害に見舞われ、非常に多くの人が亡くなり、被害を被ったことを知り、トゥグニコミュン全住民、カラ現地スタッフは非常に悲しみ、心を痛めております。 私たちは、3月18日に村のモスク(イスラム寺院)で日本のみなさんが不幸に耐えて勇気を持ち、再び安定した国と人生を迎えますことをお祈りしました。どうか、みなさんお体を大事にして下さい。神のご加護がありますように……。」
自然の中で生きている私たちは、その脅威を跳ね除けることは出来ませんでしたが、再び立ち上がれる強い力を持っていると信じます。 長い期間が必要と思いますが、一日も早く以前の美しい町を取り戻し、穏やかな生活を送ることの出来る日々がくることを祈っております。
2011年3月31日 特定非営利活動法人 カラ=西アフリカ農村自立協力会 東京事務局一同
posted by CARAブログ at 14:09| 代表村上より