2013年06月27日

国際協力NGOの情報誌「シナジー」158号 特集 TICAD V開催企画 アフリカを知るヒント

アフリカ支援を身近に感じていただくために・・・
アフリカは音楽や砂漠、闘争だけの国ではないのです。女性は賢く我慢強く、料理上手で親切(ややオセッカイ)、美しい自然の広がりは人生観を変えるほど・・・多くの魅力が満載している。


 現在多くの支援資金が日本からアフリカに注がれているのは承知の事実である。これらは、積極的な個人支援とは異なり我々国民の税金から出されていることに気が付かない方が以外に多いのではないだろうか?
支援する側としての自覚をあまり感じていないのも同様と思う。今回、当会NPOカラ=西アフリカ農村自立協力会(以後カラと略)の20年における世界最貧国といわれるマリ共和国農村地域での支援事業の経験を紹介する。
 
 所謂「発展途上国の人たちの自立」とうが、この言い方にも問題があり、彼らはそれなりに自立しているのである。日本で自立できない人たちが多くいる現状を考えると、他の国の人に自立を促すことは憚れることのように思う。
カラは1992年にNGO団体として発足し、それより前2年間同国バウグ村での個人ボランティア活動を踏襲したものである。自然環境の悪化が進む中で、昔からの知恵と工夫活かして生活している人たちが、未だ知らないが故に、多くの不幸を招いていることを知恵や技術を学び、自らの努力で将来の健康な生活へとつなげるようになることを支援している。
 所謂「学び・知り自分の生活は自分で切り開く!!」ことである。そうは言ってもその為の知識や得る手段を知らない人にとっては、ムチャクチャナことであるから、我々は村の人々の生活と自主性を大事にしながら、手段・方法を普及するのである。
 生きる為に必要なことは出来る限り支援するが日本から物や技術は持ち込まないで、現地の資材を現地の手法で活用することをカラは貫いてきた。教育・保健・環境保護・女性の意識開発・その他多くの事業(ハード・ソフト面)を同時進行している。

 
数多くの村と関わっているが、一様ではなく個性があり一定の成果を得るまでには、幾度となく困難に突き当たりマリの女性スタッフと頭を悩ましている。
 これまでの事業が現地の行政、治水森林局支所やコミュン、保健省支所、そして日本ではカラ会員や支援団体、その他から評価を得る様になったのは、人々の実生活に直接結びつく事項を事業の中心に実施し、現地の人々の意識に合わせて無理なく取り込んでいる為であると思う。そしてこれは、アフリカ人の心の動きや意識を知るカラのアフリカ人スタッフの功績によるものが大きい。

 
事業を人々にアピールし発展させるには、収入に早く結びつけ、喜びを与えることがいい。そうするとドンドン発展する。顕著な例が野菜を作って食べる野菜栽培と万国共通のおしゃれが出来る適正技術の習得である。
これらから収入を得て女性は金持ちになり、心豊かになって夫にも金を貸し、舅、姑に物を買い与えるようになって家庭内で立場が強くなる。と、しめたもので、裨益成果も大きい。
 今カラの花形事業は、女性が文字を書けなく学歴が無いので助産師研修を受けることが出来なかったが、今は地域で始めての村出身の助産師が誕生し、産院が開設したことである。
これは国の制度が変わったのではなく、助産師研修に参加で出来る力を付けたのである(学歴ではない)。必死の努力の賜物である。
 2000年にゼロだったのが2013年までに助産師が7誕生し7ケ村に産院が開設された。管理は村である。関連して村の主婦5人を保健普及員に育成し常にピンクのユニフォームで村民に保健学習を実施し、かなりの張り切りようである。
 結果、下痢も減り家族計画も普及した。勉強すれば技術を見につけ、仕事にありつけることを知り、女性の識字学習への参加や小学校就学率が高まった。
 女性が働いた原資を元に進行中である貸付資金事業も同様である。女性の将来に明るい兆しが見えてきた。これらの事業の発展が早いのは、女性に本来備わっている、家族や子供、夫を支える、という母性本能の一つの現れではなかろうか?
 カラが今までの20年余りの経験で得たことは、村古来の習慣やしきたり、自然環境の悪化に左右される人々の生活を理解することであり、苦労を聞いて同情するのではなく解決の道を共に考えるのである。
 そして顔はニコニコと親切で聴き分けが良いように見える人でも、金を持って来る人には常にイエスと言い、さもないと貰える物も逃してしまう、という貧困から来るずるさや甘えの部分もあることを知っていることも重要である。

 我々が現地で支援事業を順調に進めるには、我々の側にも多くの問題がある。
過激であるかもしれないが、マラリアに罹患することも、徒歩でなければその場へ行けないことも、彼らの苦しみや苦労を知る手段であり、苦労をすれば何が必要か、どうしたらいいか自ずと知るだろう。
 支援事業の主体は常に村人であり、我々の支援は彼らの命を支え、彼ら同志も互いに支え合うことである。
村の人たちの心に埋もれている才能・能力はアフリカ大陸のように広く深いだろう。それをうまく導き出すのも我々の使命である。
 我々側の資金で事業を進めるのであるが故に、上から目線になりがちであるが、その意識は直ぐに見破られて、嫌われ非難される。厳しい仕事であり自分への戒めが必要であると反省する。
 
 よく「現地へ行って支援したい」という声を聞く。行けないとなると、その人の支援したいという意識がそこで終わりであるように感じる。これは真の支援を考えてのことだろうか? 単に自己満足と憧れではないのか? 
 支援は、現地へ行くことだけではなく何をするかであり、それは、日常生活の延長上にあって日本に留まっての支援がなければ、現地事業は現実化しない。
そのことを多くの方に意識していただきたい。

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posted by CARAブログ at 23:24| 新聞・雑誌掲載記事

2013年05月09日

サハラ砂漠で考える (【小児歯科臨床】2013年3月号)

【サハラ砂漠で考える】
 アフリカを旅行した時に目に付いたことは、日本とアフリカの子供たちを取り巻く環境の違いでした。
「貧しい国の子供たちが可哀そう」「哀れ、惨め」と言うことではなく、将来を担う子供たちが、診療所もなく薬も買ってもらえないままに一夜にして命を落としてしまう、学校もなく教える人も場所もない、着るものも食べるものさえ充分に与えてもらえないままに、大人の手助けをして日々すごしている、このままでいいのだろうか? という疑問でした。

 個人ボランティアとして腰を据えた支援を考え、1989年8月31日に開業医を辞して同年9月にマリ共和国に渡りました。
最初のサハラ砂漠が作った美しい造形物ともいえる中での毎日は、容易なことではありませんでした。食料は週一回開かれる市場で買いますが、粗悪品が多く砂嵐の後は口に含むとザラザラしていました。しかしどんな場所でも故郷として人々は生きているのです。
 「水も無いし、病院も無いところから引っ越さないの?」と聞くと「ここは私の故郷だから離れない」と答え、村の看護師と話した時に「この村は結核が多い、食料がないから栄養が取れない、買う金が無いし金を得る手段も無い。病気になったら死を待つだけだ」と言うものでした。
 ある日トアレグ族の若夫婦がラクダに新生児を乗せて訪ねて来ました。胸部に大きな血腫がありそれを取り除いてくれと言うのです。勿論不可能です。この村で私が出来るとすれば、化膿している炎症を切開して抗生物質を塗布するくらいでした。この時ほど必要とされていることが目前に見えるのに何も出来ないでいる自分を痛感しました。
 日本での生活全ての面での無駄な豊かさを改めて思い、言葉や慣習・意識の違う中で「人々の役に立つ支援」「確実に生活の中に溶け込む支援」「彼らの未来を明るくするような支援」について考えました。
あせってはいけない、自分の多くを殺し人々に合わせる、常に誠実で忍耐強く本質を曲げないで進むことが大事であると考えました。
ボランティアの仕事は犠牲を伴うのが当然で、こちらの都合ではなく、現地の人々に合わせることが重要ではないか、と思いました。
 対症療法だけでは人々は救われないのです。私がこれまで学んだこと、知っていること、そして出来ることの範囲を充分に広げて現地の人々が納得するような結果を生み出すことが私に課せられたことではないかと考えました。
 夜の砂漠は月の光に輝き透き通るような美しさです。小高い砂丘が影を落としています。子供たちはバケツの底をたたいてリズムをとって歌い踊ります。それは日本の村祭りの夜のような響きで、冷く澄んだ空気を通して私たちの離れたキャンプまで聞こえてきました。美しい自然の中で生きている子供たちが、美しい生活が出来るように願わずにはいられないのです。

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村上、村の女教師と続きを読む
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世界は今(岩手日報2013年2月24日)

 日本では、マリ共和国はあまり知られた国ではなかった。しかし、昨年3月のクーデター後、連日のように報道され、注目を集めている。
 音楽の世界ではマリは有名で、特にジェンベ(太鼓)奏者は日本にも数人滞在している。現地では結婚式やお祝いのとき歌って踊って祝う習慣がある。
 国土の7割はサハラ砂漠で、最貧国の一つで外国援助が多く投入されている。人口は約1300万人、首都はバマコ市。街の中央をニジェール川が流れ、雨期と乾期で水量が著しく異なる。川は重要な交通路でもある。
 以前から北部(サハラ砂漠)に住む一部の人たちは独立の気運が高く、一時独立運動が活発となり問題となっていた。今回はそれがクーデターに発展し収拾がつかない事態となった。
 世界遺産も多い。古代には「黄金の都市」といわれ、学問や交易が盛んだったトンブクトー。アスキアの墓があるガオ。いずれの街も破壊され、市民も犠牲になっている。
 私が1989年10月から約1年を過ごした砂漠の村は今まさに戦場だ。村には飲料水も食料も十分になく、病気になっても薬もなく医者もいない。
 しかし、美しい砂丘の連なりや砂に輝く月の光と影が見られる夜には、どこまでも響く子どもたちの手拍子と歌声などが聞こえてきた。今は塩を積んだラクダのキャラバンの季節でもある。
 人々の暮らしや経済は降雨量に左右される。雨が降らないと主食のトウジンヒエやトウモロコシ、輸出用綿花の収量が減り、収入も減少する。青年たちは一族の暮らしを背負い出稼ぎに行く。
 学校は義務教育だが、都市部以外は教育の必要性が浸透していない。施設や教師も不足で、授業料を払えない家庭は子どもを就学させることもない。
 都会では水道や電気、エアコンも普及し、電話、ファクス、電子メールも使える。だが、停電がよくある。
 マリは1960年、フランスから独立した。日本の3倍の広さで、複数の部族が住み習慣も言葉も意識も異なる。しかし、部族間の差別は高齢者に多少残るものの、若者はそんな考えはない。
 砂漠地帯で今騒ぎを起こしている人たちは「コーランの教えにはないことをしている」と批判的な目で見られている。
 これまでは多様な部族が仲良く暮らしていた。国民は基本的には穏やかでのんびりした気風の人たちで、決して過激なイスラム教徒ではない。一日も早く穏やかな日々が再び訪れることを祈りたい。

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posted by CARAブログ at 16:01| 新聞・雑誌掲載記事